ありがとうの5日間〈5日目 最終回〉

午前中、相談員の研修会の時間を利用して、陸前高田市、気仙沼市に車を走らせた。

陸前高田市に到着。
小高い丘を越え、市内に近づくにつれ広大な草原が広がっていく。以前は、田園地帯だったとのこと。丘のふもとには、まだ部屋の中が散乱したままの建物が残っている。
さらに市内へ向かう。元中心部だったと思われるところに入り込んでいく。いったいここで何が起こったのか、まったく想像することを不可能にしてしまうほど、見渡す限り、本当に何もない。山のふもとの方に幾つかの白い建物が見えた。近づいてみると、以前高校だった校舎。残されているのは、この様な鉄とコンクリートの塊でできたものが、5~6棟だけである。その姿は、3月11日で時間が止められてしまったことを訴えているようだ。

国道沿いには、観光地を物語るように、数件のホテルが、痛めつけられた惨事の様子を残していた。最上階の5階の割れた窓ガラスから、ちぎれかかったカーテンが風にさらされていた。
海岸に一本杉を見つけた。マスコミでもよく取り上げられている。頑張ってと、その命に声をかけた。しかし、その姿は、辛そうで折れそうで助けを求めているような印象を与えた。祈ることしか出来なかった。
片付けられた瓦礫の山のみが、我々の眼前に大きく存在を示している。およそ、20メートルも越そうとするような瓦礫の壁は、無条件にこの町を奪ってしまった強烈な時間の足跡を、印象付けるかのように迫ってくる。その中にも、鈍く重たい重機のエンジン音が、瓦礫の撤去と整理に取り組みまた新たな山を築いている。
この町の賑わっていた姿はいったいどこへ去り、消えたのか。他の町と大きく違うのは、とにかく、見渡す限り瓦礫の山と、それ以外は何もない広大な土地。この地に、以前のような繁栄が再び生まれるのであろうか。それほど、命の存在が今は見えない。

気仙沼市に到着。漁業で賑わっていた町並みに襲ってきた津波は、全てを持ち去ってしまったのか。最近、やっと開業したという魚市場に足を運ぶ。市場の競りは既に終わっており人の姿もまばらだ。そしてそのすぐ側には、打ち上げられた漁船が歩道に乗り上げたままだ。しかしふと気づいたことがある。港町なのに、なぜか潮の香りがしてこない。
主要道路は、約1メートル程かさ上げられて再舗装されていた。それほどこの土地は地盤が沈下してしまっている。地震と津波のエネルギーを再認識させられた。道路の左右に残された建物に、一つも生きている姿はなかった。内部はえぐられ、外壁は剥ぎ取られ、鉄骨の錆びた柱は剥き出しにされ、斜めに傾いたままの姿をさらけ出したままだ。多くの人々がこの街で働き、生活を営んでいたはずだ。賑やかだった街の命の存在を、今はまったくその気配すらも感じられない。
国道沿いにひときわ目立つ400トンの大型漁船。鋼鉄の柱が、両側から支え、倒れそうになるのを防いでいる。未だに手がつけられていないでいる。予測できないほどのエネルギーを持った津波の恐ろしさを、強烈に押し付けてくる。

ある商店に立ち寄る。地元の人と挨拶を交わす。ほとんどの方々から、「遠くから本当に御苦労様です。ありがとうございます」と感謝の言葉をかけていただいた。心苦しく申し訳ない思いがよぎる。
この地域は、陸前高田の町の姿とはまったく異なる。それは8カ月という時間が過ぎたにもかかわらず、木造の建築物以外は、痛ましい姿をそのままさらけ出し続けているのである。その数も見える範囲で百棟余りある。この街にどれだけの罪があるというのだ。なぜこれほどの仕打ちを受けなければならないのだ。そう思ってしまうのは私だけだろうか。
さらにこの街は、3日間も燃え続けた地域でもあった。歩道橋があった。橋の上まで黒く焼け焦げた後が、その恐怖を物語っていた。ドアを開け車外に立ったとき、独特のにおいが襲った。漁港の町なのに、鈍くて重たい、どんよりとしたにおいだ。いつになったら潮の香りが戻ってくるのか。

午後から、Dさんと同行。仮設住宅を訪問する。ある1人暮らしの高齢者の部屋に案内してもらった。今回の支援で屋内に入るのは初めてだ。部屋の中は、四畳半一間と台所。部屋にはテレビ、こたつ、ストーブ。布団を敷くスペースの確保が難しい。窮屈な生活空間の現実を見せられる。
その中でも、とにかく元気なおばあちゃんである。大きな声と笑い声は 仮設住宅中に聞こえてきそうだ。Dさんたちの支援の賜物だろう。こちらまで喜びをもらった。
センターに戻った駐車場でDさんが話しかけた。ある家庭のことで相談があると。震災で家を失い仮設住宅で生活をしている。本人の不安定な精神状態、さらに子育てに悩んでいることなど、現状を細かく説明した。
まずは、相談してくださったことに対して、お礼を申し上げた。その後、少しだけ応えさせていただいた。「ゆっくり本人の思いを聴ける人と、時間を設けてみてください」と。30分ほど費やされた時間は、私にとっては大切な時間となり、有意義なものであり感謝であった。今回参加での大きな収穫の一つであった。

その夜。ボランティアセンターのリーダーであるSさんとの交流が実現した。思い出になる有意義なひと時を過ごせた。食材は、福岡のメンバーで準備をして持ち込んだ。薪ストーブの炎を囲んで「福岡流鍋の会」の懇親会が始まった。
こたつの隣を陣取った私は、Sさんと話すことができた。次第に震災当事のことに話題が進んだ。「なぜ90歳のおばあちゃんを助けるために、7人もの若者が命を落とさなければならなかったのか。消防団の若者の中には独身もいる。父親になったばかりの者もいる。津波の危険を感じて、防波堤の水門を閉めに走った。消防団の使命はわかる。だが、誰が死んでもいけないのだ。今でもこれが悔しい」と。
なぜ、なぜと何度でも絞り出すような声で、繰り返し、繰り返し訴えられた。溢れ出す涙にも構わず、私に話しかけた。心の奥底にある自然の感情のままにその思いを語ってくださったのか。飲んでいる酒が、ほろ苦く、酔うにはその力を及ばせなかった。
「今日のようにいろんなことを語り合えたのは、本当に久しぶりだった」と笑顔で言った。うれしい言葉をもらった。
5日間、ミーティングで会うだけの関係だったのが、これほど身近に接してもらったことに感謝した。もっと早い日に機会をつくっていたらと思ったが、今晩だから良かったに違いない。
帰り際、Sさんと涙とともに抱き合い、別れを惜しんだ。またの再開を約束した。

 

 

 

 

 

 

 

 

・筆者 プロフィール

具志道次(ぐし・みちつぐ)

みやま市在住
天理教幸若分教会 会長

平成23年11月5日から9日まで、福岡県消防防災課の要請により出動となった天理教福岡教区災救隊(災害救援ひのきしん隊)第1班と共に岩手県大槌町へ。現地では生活相談員として活動。